洗面台の底を塞ぐ蓋には、抜きやすいように、普通鎖がついています。

何を思ったのかは、全く知る由もありません。本人さえもしかしたら無意識の行動だったのかも知れません。

母は、その鎖部分をギュウっと握り引っ張ったのです。誰が制止させようとしても駄目で、どうにもできなかったそうです。壊すまで引っ張り続け本人が納得して手を離した時、パックリと傷口が開いていたそうです。本人に痛みがなく、出血も少なかったことから、救急車は呼ばず翌日近所の整形外科へ行き、念のため4針ほど縫いつけたのです。

今回、訪問前に報告を受けていました。主人が申すに母の性格は勝気で負けず嫌い、今までホームで穏やかに暮らしてこられたのが不思議なくらいと申します。

認知症は、痛いという感覚を奪ってしまうのでしょうか。物を握る力は凄いです。私たちが握手しても老人とは思えないほどの力で握ってきます。

今度は何をしてしまうのだろうかと、包帯でぐるぐる巻き、弄らないようにテープで固定されている母の手をみながら心配する私たちです。

整形外科の夏休みが終われば、抜糸する予定です。

いつもの年は、お盆の込み合う時期をはずして、義母を見舞うのですが、今夏は伯父の新盆ということもあり、安芸地方の白い「ぼんぼり」を墓地に飾らなくてはならず、義母に変わり私たちが行ってきました。

駅からレンタカーに乗り、義母の実家へ向かうのですが、コンビニにも「ぼんぼり」が売られているのには、ちょっとビックリしました。新盆は白地に銀、白、少々の金色の紙で装飾されていて、おとなしい感じ。他の「ぼんぼり」は、赤、黄、紫、金、銀紙で飾られていて私から見たらど派手です。この地方独特なものだと聞きました。重要なのは、ぼんぼりの部分に自分の名前を書き入れることだそうで、誰が来てくれたかが、一目でわかるようにだというのです。

朝、家を7時に出て、夕方3時半、「ぼんぼり」に名前を書き入れて、所定の場所に飾り義母の実家へ行きました。お仏壇にお参りさせていただいて、ほっと一息。出迎えてくれたのは、亡くなった伯父さんの長男、次男さんでした。他の叔母や叔父とは行き違いになってしまったようで、残念ながら会えませんでした。

東京のビル街から、半日で山々に囲まれ、日本海へ注ぐ川が流れ、広大な田んぼと畑、家は集落ごとに点在する。何とも不思議な光景です。

ここらには、子どもがいないんだと主人の従兄弟が嘆いていました。自分も週末に田畑の世話をしに、ここへ来ているのだと言っていました。そう言われて見れば、草でぼうぼうになっている元田畑も、誰も住んでいなさそうな家もあったような・・・。

昔、盆踊りとかお祭りとかあったんだよって・・・寂しそうに語っていました。

ぼんぼりは風にゆられて、どの家のお墓の周りも綺麗です。私は初めての経験でした。また来年、今度はカラフルなぼんぼりを持って行こうと思っています。

高分子吸収ポリマーの質が日々改善され、成人用おむつも吸収部分が薄く、ウエスト部分もゴワゴワしないよう改良されています。日中は人手もありますから、尿パットをあてておき交換可能ですが夜間は大パットをあてて朝までが普通です。グループホームでは夜間一人で9人のヘルプをするので仕方のないことだと思っています。

夕食後、服薬、歯磨きと続き、ひとときのくつろぎの後、就寝の準備をそれぞれが行っていきます。義母も皆と同様にしていきます。就寝中何度かトイレへ行くことのできる人は良いのですが、義母の場合は全おむつ生活ですから、ここで夜用大パットに交換します。いつものように大パットに交換し、他の方のお世話をしてから義母の部屋をふと見たヘルパーさんが、あることに気がつきました。

義母の口がもぐもぐと動いていることに・・・・・・・。

えー何???

義母がいやがるのを必死に宥めながら口を開けさせ、出てきたものは、「オムツ」のパット部分でした。飲み込むまでに至っていなかったのは、本当に幸いでした。飲み込んでお腹の中でポリマーが威力を発揮したら、と思うと本当に恐怖です。本人に食べてはいけないと言ったところで理解できませんし、何とかオムツに手が届かないような工夫をする以外にありません。

現在の対策:::

大パットをあてた後、薄手で二重になっている腹巻をリハパンの上から胸下まであてる。

義母は身体が小さいので、しばらくこれで様子見になるとのことでした。

そして今年も、脱水に要注意の夏がやってきます。年を重ねるたびに水分補給が難しくなっている義母です。今年は電力事情もあり高齢者施設でも節電しなくてはならないのでしょうか。

今夏は義母の兄の新盆です。安芸地方だけなのだそうですが、「ぼんぼり」と呼ばれる物を墓前に供えるのだそうです。新盆は白、他はカラフルな色で、墓地が華やかになり不思議な風景です。

今年に入った早々、義母の兄が急逝しました。留守番電話で知ったのです。

今すぐに、家を出れば明日の告別式に間に合ったのですが、無理しなくていいよ。という親戚の方々に甘え3月の末、義母の実家へ行ってきました。

今回は、義父の17回忌にあたり、京都で途中下車、お墓参りをしてから広島へ向かいました。年度替りなのか春休みだからか、京都市内の混みようは半端ではなく、約2時間あれば余裕でお土産も購入できるはずだったのに、のぞみ発車まで15分しかないよと、タクシーの運転手さんに言われ、お弁当だけ買ってのぞみに飛び乗りました。広島駅からは、レンタカーを手配していました。川の流れが途中から日本海側へ変わってしまうような山間へは、バスもありますが1時間に1台くるかこないかの所ですので、小さい車を借りて途中で花と線香を購入しました。親戚誰にも行くとは言っていなかったので、とりあえずお墓参りだけでもしてこようと思っていました。が墓石に名前が刻まれていない・・・。49日は過ぎたけれどまだお墓へ納骨していなかったのです。ご先祖様に花と線香を供え拝んできました。

このまま帰ろうか、でも近くに従兄弟の家があるはずだと、車から降りてとっとこ走ること数分、「あったよ」と夕方5時過ぎのこと、土曜日の夕方、夫婦で早めの晩酌をしているところお邪魔してしまいました。義父の葬儀からですから、16年ぶりの再会です。亡くなった伯父の次男さんです。お互い懐かしかったのでしょうね。急な訪問で本当にご迷惑おかけしました。

伯父さんは、前日までバイクに乗り、元気にしていたそうです。その日の夕方、姿が見えないね。と近所の人や家族が近辺を探したけれど見つからず、従兄弟が実家の塀周りを一回りしたところ家から影になって見えないところに倒れていたそうです。伯父の家は市内ではないのですが、市内から50人くらいの警察関係者が来てもちろん実家はキープアウトの黄色テープが張られてしまい、亡くなった伯父は解剖のため広大病院へ搬送、遺影の写真を探そうにも家に入れず、通夜の席に広大から戻れず仕舞いだったのだそうです。死因も特定不明の「急性心不全」。

バイクに野菜を積んで、義母のところへ何度も見舞いに来てくれるやさしい伯父でした。93歳年齢には不足はないかも知れないけれど、やっぱり寂しいなと思います。伯父さんの奥さんはご健在なのですが、年相応もしくは認知症で老人施設にいます。伯父のことは知らされていないそうです。

義母に事情を話しましたが、無反応でした。認知症は聞こえている、理解していると言いますが、今の義母は、そういう段階は過ぎてしまったように思います。そしてまた一つ問題を起こしていました。

認知症の義母が自身をどこまで理解しているのか知る由はありません。義母は要介護5で全介助、言葉も殆ど口にできません。グループホームではターミナルケアの方向性をそろそろ考えてくださいとそれとなく伝えてきました。

義母のいるグループホームでは、希望すれば看取りまで行っています。

体調が悪くなり経口で食事が出来なくなった時、医師が今後どのように対処されますか?と問います。

・病院へ入院させる。〔グループホームを退所する〕入院させてくれる病院があればの事。

・胃ろうを造設し、一時入院するが、グループホームへ戻り、胃ろうから食事を摂取する。

・中心静脈を維持し、一定量の栄養点滴を補給する。

・腕などの抹消血管よりの静脈点滴で主に水分と少量栄養を補給する。

選ぶのは、家族に委ねられます。本当に難しく悩ましい選択です。

今現在、介助で食事ができる義母ですが、いつ変化するかわかりません。その時のために今から考えておかなければなりません。

不動産のことで、ごたごたしていた3月11日、東京でも激しい地震がありました。家族の所在を確かめようにも携帯が使えず、都心にいたら帰れるだろうかと心配でなりませんでした。

私の母の実家は、宮城県石巻市です。

旧北上川の河口近く、私が小さい頃、住吉公園の小さな太鼓橋を渡ったり、石巻の名前の由来である石に渦のような巻きの模様が入った石を見たり、はぜ釣り、カニ釣り、川開きの花火と夏休みに石巻へ行くのが楽しみでした。長浜、渡波は当時は海水浴場で日和山からの景色は北上川の河口から左も右も海でした。ただ凄かったのは、南風の日は、かつおの工場?からくる猛烈な臭い・・石巻の臭いなのだと我慢していた記憶があります。お菓子やさんや八百屋さんの店先でとうもろこしや枝豆をふかして売っていました。遊びにきたのか・・ちょっとこさいって両手いっぱいに枝豆をもらったり、東京ではありえないことがこの街にはたくさんありました。私が中学生になるころから夏休みに石巻へ行くことは激減し、行っても一日、立ち寄る程度になっていました。

長浜が大きな漁港になったと聞いていました。大きな船がついて冷凍の箱詰めになった魚を倉庫へコンベアーで納めているのだと聞きました。

私が知っている石巻とテレビに映し出される石巻はずいぶん違っていました。

母の実家は津波にあい、住めなくなりました。

昔、亡くなった祖父が「地震がきたら、てんでんこだよ。」といつも私たち姉妹に聞かせていた言葉を思い出しました。昔チリ地震で川の水が異様に引いていく様子やそのあと大津波が来てたくさんの人が犠牲になった怖さを何度も話してくれました。きっと私だけでなく、石巻に住んでいる伯父伯母、従兄弟も皆同じ話を何度も聞いていたのだと思います。連絡が取れなくなって数日後、インターネットの掲示板の避難者リストに全員の名前を見つけることができました。教室は皆ばらばらでしたが偶然なのか皆同じ中学校に避難していました。

今は、それぞれ掃除をして何とか住めるようになった家族あり、仮設住宅に住む家族ありと今後を考えると大変ですが、日々何とか暮しているようです。

母が電話をすると「こっちは大丈夫だ。」としか返事がないようで、返って心配しているのですが・・・。

てんでんこ・・・家族がばらばらになってもとにかく1人でも逃げる。そんな意味だったように思います。本当の意味は違うのかも知れません。遠い記憶なのでお許しください。

実家近くの不動産屋さんの話では、そんなに長く待たなくても売れますよ。なんて軽い感じ・・・。

でも近所は駐車場だらけなんだけど、本当に大丈夫かしら・・・。それにしても適正価格が低いのには驚きでした。地価が高いのは地方都市でも極一部のことで、市内でもちょっと奥に入ると、へーって感じです。

待つこと数ヶ月・・・買手が付きましたよとの電話。

業者への売買でした。即決で仮売買契約書の作成をお願いして、家庭裁判所へ連絡、書類を整えて提出しました。

一部不足書類があったため審判が下りたのは2週間後くらいでした。

そこからは、司法書士さんにお願いして登記の変更が行われ、売買が終了しました。

更地になった実家跡地を見ると寂しい感じですが、しばらくすると新しい家が建つのでしょう。

新築のグループホームへの訪問です。

昨年くらい前から、夏場の水分補給が難しく、お茶を口に含んだままゴックンができず洗面所で吐き出すようになっていました。半年前までは、ゆっくりですが食事を1人でしていましたが、この頃はままならず全介助で食べさせてもらっているとのこと。

水分は、すいか、みかん缶、紅茶ゼリー、などで補っていました。

食事は食べ物で遊びだしてしまうので、遊びの合間に介護者がスプーンでお口へポン。口の中へ入ればもぐもぐと食べます。

言葉を発する事が難しく、ニコニコとしているのですが、何も話しません。

たしか訪問した日の昼食は、刻んだ野菜と細かいひき肉の入ったふんわりオムレツ、ジャガイモと人参のやわらかソテー、キャベツ他野菜のスープ、デザートにぶどう、やわらかいご飯だったと思います。職員の方々も同時に同じものを食べます。自分も食べながら、食べさせる。赤ちゃんに離乳食を食べさせるママそのものです。

義母は真剣に食べ物で遊び、しっかりと食事をしていました。

主人や私のこと理解しているのかは不明です。

今年の冬だったか、グループホームで火災があり多数の死傷者がでました。その事がきっかけになり、全国のグループホームに対し防火対策調査がありました。義母の住むグループホームは、普通の民家をリフォームしたものですし、立地も急斜面で消防車が入れるの?という心配だらけでした。

調査の結果は、防火壁の設置、スプリンクラーの設置・・・。入居者がいるなかでは、工事出来ないため、所長は新築移転を決意されました。現グループホームは通所ディサービスに利用し、新築移転の方は1ユニットから2ユニットへ〔9名から18名〕なりました。大胆な行動に本当に驚きましたが、平地になれば利用者家族にとって通うのにとても楽になります。

そして、数ヶ月で引越しとなりました。家具や調度品はそのまま、なるべく変化が感じられないように配慮したそうです。今までの入居者は1階へスルー、新しい入居者さんは2階へとなりました。

義母の引越し通知を義母の兄弟、友人方に出したところ、早速友人が見舞ってくださったとホームから連絡が入りました。本当にありがたいことです。兄弟からもハガキが届きお盆前には必ず顔見せに行くと書かれていました。結局私たちが一番最後になってしまいますが来週行きます。

ちょっと心配なことも出てきたと所長さんから言われています。

義母がグループホームへ入所した後、残ったのは誰も住まない家でした。将来、この家に帰れる見込みのない義母にこの家は必要なくなってしまったのです。主人にすれば生まれ育った生家であり、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所です。このまま庭の手入れなど手を掛けていれば保存できないこともありません。しかし、近隣住民から見たらどうでしょう。空き家に侵入者がこないか、不審火はないかなど不安材料ばかりなのです。

とりあえず業者に入ってもらい家財の処分をすることにしました。リサイクルできそうな着物や家具は別業者に引き取ってもらいました。大切にしまってあった兄弟で撮った写真などは持ち帰ることにしました。仏壇は我が家に大きすぎて納まるサイズではなく、お寺さんに供養していただいた後仏具店に引き取っていただきました。その後、我が家は、部屋の一部をリフォームして仏壇を購入しました。仏壇とお寺にかかった費用は義母、リフォーム代は我が家持ちです。(裁判所に相談しました)

主人が「ここは、他の人に住んでもらおう」と決めました。居住用資産売却の特別控除は居住しなくなって3年以内で過ぎれば税金が発生するというのも絡んでいました。

早速、家庭裁判所に電話をし、居住用資産の売却方法を聞きました。

裁判所の許可がなければ、土地建物の売却はできません。

成年後見人になって、最初の仕事は、財産の統一です。

1.東京法務局より「登記事項証明書」を取り寄せておく。

2.預貯金を1行にまとめる為、一番動きやすい銀行で、成年後見人付きの本人口座を開設す

  る。先に銀行に電話するなどして必要書類を確認する。

3.通帳ができたら、受給年金がある場合、年金機構へ受け取り先変更の書類を提出する。

  一ヶ月から一ヶ月半はかかるので、最寄の年金事務所に電話して必要書類を聞く。

  地方事務所まで行かなくても良いので楽でした。

4.恩給の受給がある場合は、恩給局へ電話して書類を送付してもらう。

5.ゆうちょ銀行の場合は全国どこでも名義変更が可能。地方銀行、地方信用金庫、信組は

  面倒でも、支店まで行く。奥から偉そうな人が応対するも、マニュアルを見ながらなので

  解約して取りまとめ銀行へ送金するまで、2−3時間はかかる。

  時間がかかってイライラするが、各銀行一回限りなので、この銀行はどの程度?なんて

  評価しながら作業を進めると、いろいろ面白い発見をしたりする。

 (慌てて本店に確認電話したり、店の奥の方で数名が小会議したり、夏休みで人が足りなくて

  なんて言い訳したり、窓口のお嬢さんが「このごろ、こられないので心配してました」なんて声

  を掛けてくれたり。)

6.有価証券も成年後見人付きの名義変更が必要です。

7.よって、どこへ何をしに行っても時間の余裕が必要です。

ただし、登記事項証明書、印鑑証明、戸籍謄本、住民票など有効期限付きが殆どですから

計画を立てて動くように心がけ先送りしないようにしましょう。

家庭裁判所に成年後見の申立てをしてから数日後、裁判所の調査官は義母に直接面会に行き本人の状態を調べます。入院先の主治医へも精神鑑定の依頼が裁判所から届けられます。他に兄弟姉妹がいる場合、それぞれに、この申立てへの意見を文書で求められます。

精神鑑定は時間のかかる診察です。選挙権を失う、印鑑証明を持てないなど義母の一生を左右します。成年後見に反対する兄弟がいると話し合いに時間がかかります。

申立てをしてから、約2ヶ月と5日目に家庭裁判所より後見人決定の書類が届きました。義母には、家庭裁判所より「告知」という書類が届きました。

届いた謄本には、申立て通り主人と私二人、成年後見人に選ばれました。

早速、約1月後、提出期限までに義母の財産一式、生活環境等の状況を書面で提出する成年後見人としての最初の仕事がはじまりました。

グループホームに入居してから、以前より笑顔が戻ってきた義母です。

ある日、定期健診で肝臓のエコー検査を受けたところ「影」があるというのです。紹介状やら検査の予約やら、すべて整えてもらったうえで、主人一人CT検査の付き添いに行ったのです。グループホームでも付き添ってくださるのですが、主人が大病だったらどうしようと心配していたので自分で付き添うことにしました。「オムツの世話」は出来なかったら行き先が病院なのだから誰かに頼めると勝手に決め込んでいました。

結果は「のう胞?」特に心配する必要はないと言われました。義母本人さえ知らないでいた病気でしかも80歳近く・・・。グループホームの主治医の先生は、毎食ウルソ錠の内服と強力ミノファーゲン40ミリ週2回静注で様子をみましょうと提案されました。肝硬変になる手前な感じなので治療をして進行を緩やかにする方法だそうです。

義母も嫌がる様子がないので、しばらく続けていく事になりました。

老健での生活に慣れ落ち着いてきた頃、認知症は進行していて息子の顔はわかるけれど名前が出ない状態になっていました。そんな時、申し込んでいたグループホームから電話が来たのです。申し込み直後にホーム長が義母と面談しグループホーム入所に問題ないことを確認していました。

何でも、入所されている一名様が病気悪化のため入院されたそうで、退院後ホームへ戻るか退所されるか二週間ほどで決まるのだそうです。たぶん退所になるだろうとホーム長が電話をくださったのです。

認知症対応型共同生活介護〔グループホーム〕は、在宅の介護保険扱いです。健康保険で医療機関の利用も出来ます。気になっていた慢性C型肝炎についても年齢に叶った治療行為を受けることが可能です。C型肝炎は血液感染なので一般生活で他人に感染することはありません。共同生活においても何も問題ないそうです。

そして一番気になっていた、離れて生活することを選ぶのは親不孝ではないかとホーム長に相談しました。

昔は長男や嫁が舅、姑の面倒をみるのは当たり前だったかもしれない。でも現代は食の発展、医療の進歩に伴い介護は先の見えない長い長い道のりになる可能性が非常に高い。一家離散になったり介護疲れで事件に発展してしまうことも多々ある。だったらこの家に母親が住んでいると思えば気が楽でしょう。ここへ遊びに来ればいいんですよ。お子さんがEU圏住まいの方もいらっしゃいますよ。東京なんて近い近い、六時間もあれば来れるじゃないと語られたのでした。

東京へ義母を呼び寄せてしまったら、伯父さんや叔母さんが会いに来るのは難しいけれどここなら皆来てくれるのです。

二週間後、グループホームへの入所が決まり、部屋の清掃一式が済む、約一ヶ月後に義母はグループホームへ引っ越すことになりました。

入所時の健康診断は、グループホームの主治医、なんと老健の経営母体の病院で同じ先生なのでした。

今になって思えばいくつかの兆候がありました。それが年齢的な自然の老いなのか病気なのか区別をつけられなかったのは、非常に残念ですし責任を痛感しています。

認知症の診断を受ける1年〜1年半ほど前からでしょうか 。

・何時に電話をしても寝起きでした。30回以上ベルを鳴らしても出ないのは常識のようになっていました。寝ている時間が異常に多かったです。

・料理をあまりしなくなりました。

・いつもお祝いの電話をくれたのに孫の誕生日を忘れてしまいました。

・自宅の塗り替えをしていました。近所の人の話ではあっという間だったそうです。いくら探しても請求書も領収書も出てきません。

・年金受給が止まってしまい、どうしようと私に電話してきました。

・健康保険は病気の人が払うものだから私は払わない・・・と電話がきたりしました。

・自分は元気だから誰にも頼りたくないが口癖でした。

・風水画を売るほど購入していました。皆梱包されたままでした。

いろいろ事が起きるたびにこちらで対処して治まっていました。でも今考えれば義母の生活全般に支障が出ていたのです。

絵画については義母が入院してからずっと後、注文いただいた商品の納品日が遅れますという葉書が転送されて初めて、他にも注文中があったと知って驚きました。

助けて・・・のサインは自ら出すのは難しいようです。義母の場合、自我が非常に強い人ですから弱音を言うなんて考えられませんでした。年金が止まった時も誰かが仕組んだ・・とか言っていました。それが症状だったと後になって知ったのです。

介護老人保健施設、「ろうけん」と呼ばれています。3ヶ月ごとにケアプランを作成し元の生活に戻るため、退所後の生活に支障がないよう支援するところです。

医療に関する費用は施設の料金に含まれていて、保険請求は出来ません。入所している間は他の医療機関に行ったり、薬をもらうことはできないのです。でも「ろうけん」の施設長は病院長でかかりつけ医になりますから、今まで行っていた医院などには行けないという意味です。通常の内科系の診療はしてもらえますし、必要に応じて施設料金内で投薬もあります。歯科、眼科、耳鼻科など設備面で対応できないような科は診療内容によっては認められているようです。

義母は、最近まで車椅子生活でしたので理学療法士によるリハビリ、歩行訓練をしています。手すりに縋れば何とか自分の足で歩ける位まで回復しています。これからは階段の昇降にも挑戦するようです。

曜日によって、塗り絵、習字、体操など本人が嫌がらない限り参加させてもらっています。母は筆なんて持ったこと無いはずだ、と主人は言いますがなかなか立派な「書」です。

「ろうけん」に入所して一ヶ月ちょっと、グループホームから電話が入りました。

前後しますが家庭裁判所へ申立てをしました。事前に予約をして申立てをする日に申立人と後見候補に対する面接があります。義母には医師の鑑定が必要になりますから鑑定料を裁判所に納めなくてはなりません。こちらの相場は5万円だそうで申立て側が支払います。

事務官殿との面接は一時間半程度。初めは緊張しましたが、とても穏やかな方で和やかに話が出来ました。順調に運べばこの後、事務官殿が義母本人へ会いに行き意思確認をしてから審判になるのだそうです。一応義母には裁判所の人が会いに来る事を話していましたが、当の本人は???なので意思はどれだけ確認できることやら・・・。確認できないから申立てしているのだけれど・・・。できないことを確認する重要な手続きなのでしょう。

長い午後でした。家庭裁判所の建物から外へ出た時、身体から力が抜けてしまうような脱力感におそわれました。

後は審判を待つだけです。  

病院では、色違いはあるものの入院患者全員揃いのジャージでレンタルでした。入所した施設では着脱しやすい普段着、又は室内着が必要です。実家の室内に無造作に置かれていた服については汚れが酷く全部捨ててしまいました。箪笥の中の洋服は外出用であったため現在もそのまま保存してあり防虫剤を時折確認しています。

大型洗濯機で洗い、乾燥機で完全乾燥させますからかなり丈夫な洋服が必要になります。イメージが掴めないまま、とりあえず巣鴨へ行ってみることにしました。商店街を歩く方々の服装を観察したり、お店でいろいろ情報を得ることができました。何せ義母は身長140センチと少々、年齢と共に少々首、腰が曲がってきたためにもっと小さく見えるかも知れません。全体的に小さいのでサイズで探さなければならず色もデザインも無視して機能性のみの範囲で何とか購入できました。ウエストが全部ゴムでSサイズのパンツについては、見た目で長すぎるので私がすそ上げをすることにしました。

裾上げはまつり縫いで仕上げましたが、名前シールはアイロン仕上げを選びました。アイロンで貼り付けた上からもう一度糸で縫いつければ、かなり丈夫なはずです。というわけでアイロンを買い換えました。結婚時に主人が持ってきた唯一の家電がアイロンだったので大事に使用してきましたがスチーム機能が壊れてしまい、手ぬぐいをぬらして当て布にしていました。不便といえば不便だし、まあこのままでも使えないわけではなかったのですが・・・。五千円でおつり有り、コードレスで軽くてとても便利です。

今は、現地で調達した洋服〔パンツが長すぎ〕数着を何とか着回してもらっています。施設にも着替えが間に合わない方のために数着の用意があると言われていたので利用しているかも知れません。調度季節の変わり目、用意が出来たら洋服を持って様子を見に行こうと思っています。

成年後見のための鑑定は行われている最中ですが病院を退院し、老人保健施設へ入所することになりました。病棟の看護師さん、ケースワーカーさん、主治医の先生に見送られ退院しました。「もし認知症の症状が悪化してしまった時には、いつでも電話してきてください。必ず対処しますから安心していてください」と心強い言葉をいただきました。後で考えると私たちは相当不安そうな顔をしていたのでしょう。

病院からタクシーに乗り、1分ほどで老健に着いてしまいました。

受付に相談員の方が待機していてくださり、すぐにエレベーターに乗り入所スペースへ行きました。エレベーターの少し高いところに暗証番号を入力しないと差動しないような装置がついていました。そこ以外は普通の病院のような感じ、何より一人当たりのスペースが広く入所人員を考えても介護の目が行き渡る・・・そんな風に感じました。当の本人は位置障害があり、自分が今どこにいるのか把握できないため、不安そうな顔はしていません。14畳くらいの部屋にベッドが4台、衣料品を入れるような大きめのクロゼットがあります。ただクロゼット内に衣料品を入れると自分の服と他人の服の区別が出来ない症状の人もいるので、全員ステーションで管理するそうです。

皆が集まるフロアは窓が広く、明るい日差しと景色が広がります。義母が毎日の買い物をしていたスーパーマーケットが間近に見えます。でも景色を見ても何の反応もありません。この街で暮らしてきた50年以上の歳月が義母の中から消えてしまったのがとても寂しいです。

義母の兄弟さん、女学校時代からの親友の方々に入所の連絡をしました。近くなのできっと皆さん馳せ参じてくださるに違いありません。旧姓で呼び合ったり残っている能力を引き出せるのは私たちでは決して出来ないことなのです。

義母の様子が悪いような時は、早めに連絡をくださるようお願いをして私たちは帰路につきました。

老健でオリエンテーションを受けました。

老人保健施設は病院から自宅や他施設への橋渡し的存在であることの説明がありました。リハビリを主な目的としているので、治療をする病院とは違うと考えてほしいと言われました。入院ではなく入所であるということです。

老健に病院から「診断書」が届いていました。相談員の方が中を開いて診断書の確認をしました。すると既往症の欄に 「慢性C型肝炎 下腹部に手術痕有り」と書かれていました。主人も私も全く知らないことでした。義母から知らされていなかったのではなく義母も知らないところで罹患していたと考えた方が正しいと思います。老健に入所しようとしているのですから治療は考えられませんし、もし病院を考えても高齢、認知症であることからインターフェロン治療は無理だろうと言われました。今まで未治療だったのだし肝機能も酷く悪い状態に無いことから、次の施設へ移るまで経過観察ということになりました。

血液製剤使用したの?輸血したの?と主人に聞きましたが、何せ自分が幼いときに母が入院していた事しか覚えていないのです。相談員さんの話では、血液感染なので他の入所者さんとの生活には何の問題も無いそうです。過去を考えても詮索しても仕方がないのでこれからの事だけ考えようと話し合ったのでした。

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