右ふくらはぎ下筋部分断絶

二階から階段を下りているほんの一瞬の出来事でした。階段に付いた右足ふくらはぎが、「グニャグニャ」と音を立ててねじれ、後二段ばかりをどのように下りたか覚えていません。そしてやってきたのは、猛烈な痛みで、かかとを下すことが出来ないのです。

音は身体に感じたもので実際に音がするのか分かりません。

調度、リハビリの日だったので、ついでにリハビリで診てもらい「肉離れ」で安静を要するでした。

痛みが引かず、歩けもせず、何で我慢するのか二週間後、診察の日に、肉離れと言われたけど痛みが引かない事を医者に話したところ、(._.)診てみましょう。あらららららら・・・・・・・。「これね、肉離れじゃないよ。どこで診てもらったの?」医師。「ここのリハビリ室ですけど」私。「えええ 本当かい」医師。「はい」私。「全部じゃないけどさ腱が切れちゃってるよ。ほらここ、痛いでしょ」医師。「ギャー、イッタタタタ」私。「本当なら固定するんだけど日数がたっちゃったからリハビリでゆっくり治そうや」医師。「はい」私。ってことになりました。それから十日程、触らなければ痛くないです。階段は痛くて大変ですが・・・。

筋痛症の症状の一環らしいので、今度は左足かと・・・。

案じています。

約1年ぶりの書き込み

ずーっと、痛かったのです。首、肩、腕、肩甲骨周り、腰、骨盤周り、膝、両側が痛くて痛くて、ある方に、そんな五十肩なんて聞いたことないわよ。それなりの病院へ行って診てもらいなさい、そんなんじゃ何も出来ないでしょうと言われました。

私、痛い痛いって言ってばかりで、周りの人の助言や言葉を全く聞く余裕を持っていませんでした。まともに歩けていない自分に気が付いていたのに・・・です。症状や身体の状態で検索して沢山ヒットしてここならと思えたクリニックに電話してみました。

今すぐにいらっしゃいと言ってくださったクリニックへ行きました。私の両親は何故か同じ病気(難病)持ちでした。他人同士なのに非常に珍しいらしく、私が母が発病したころの年齢になって気になるようなことがあったなら必ず検査するように言われていたことを問診表を書きながら思い出し書き加えました。

若く気さくな感じ好印象の先生で、両親の病気についても心配してくださり、検査項目に追加していただきました。その日は、たっぷり血液採取され来週の予約をして帰りました。帰りのタクシーの中、今まで通っていた整形外科の先生や運動療法の先生の顔がボンと浮かんでしまいこの先、転院するのは嫌だな、運動療法辞めたくないし、どうしよう。。。でした。

一週間後、心配していた両親の病気は心配無。リウマチ、パーキンソン、膠原病などの病気は全く無く全てを打ち消して残った病気、私は五十肩ではなく、「線維筋痛症」という病気でした。現在、整形外科から出ている薬がビンゴで、運動療法も効果的なことから、整形外科管理になりました。具合が悪くなったら直ぐに受診するのが条件です。

病名がついたところで、歩きにくい足が治るわけでもなく、痛いは続行中です。少しでもリハビリになればと、杖とノルディック用の杖を購入しました。歩き易いです。あれーどうしたのって聞かれる事もしばしばありますが、背を伸ばして歩けている自分に満足しています。

新型コロナで事務所も時短にしたり休んでもらったり、訪問を先延ばししたり、来所を電話で済ませたりと極力、人との接触をへらす努力をしています。昼食もコンビニばかりになりました。医療関係の方々の努力が報われるよう、自分たちに今出来ることを実行しています。

ノルウェイジャンのジン サマーカットに挑戦

ノルウェイジャンフォレストという猫種のジン♂です。尿路結石と膵炎持ちで家の中では親分なのですが、毛繕いをしなくなり、私の手入れ不足も手伝い全身毛玉だらけになってしまいました。この度、全身麻酔の上、歯石除去を中心に折角の麻酔なので全身サマーカットにしてもらいました。顔としっぽには少しだけ毛が残り、ライオンカットというのだそうですが、モコモコだった姿との差に、可愛い?変?本人は毛があるつもりでノシノシがに股で歩くのが可笑しくて・・・。

毛が伸びてきたら、バリカン購入して自分で刈ろうかと思っています。

6月って 苦手です

6月って「苦手」です。毎年毎年体調を崩してしまいます。蒸し暑い日が数日、涼しい日が数日・・・です。フラフラして立って居られない、頭痛、吐き気、食欲不振、腹痛、下痢と全身状態が悪くて辛いです。寝込んだのは一日でしたが、具合の悪さは残ったまま、しっかり夏になれば治るのですが気圧のせいなのか耳鳴りまでします。自律神経失調症なのだろうと毎年思いながら養○酒を飲んで体を冷やさないように気を付けながら暮らしています。

足の親指 

五十肩のリハビリが欠かせないものになりました。それとは別にどうにも歩きにくいと感じていました。特に足の親指が痛くて地面を蹴るなんて歩い方出来ません。もしかしたら「あれ」

そうなんです。「あれ」は「巻き爪」だったのです。爪が指に食い込んでしまい痛くて歩けなかったのです。で、皮膚科へ行きました。最初はテープで固定、自分の指でも上手にテーピング出来ないので、リハビリついでに整形外科で巻いて貰っていました。が、今度は爪の逆側が痛みだし再び皮膚科へ行きました。今回は炎で焼いたピンセットで根気よく爪を食い込みから外し長い部分の爪を削り、爪と指の間に脱脂綿を挟み瞬間接着剤で固める作業をしました。痛くない感覚は久しぶりの事でしたので感激、歩幅は小さいけれど歩けるようになりました。

あんなに痛かった腰がグンと楽になったのは「巻き爪」の治療のおかげだろうと思います。これでやっと五十肩のリハビリに専念出来ます。早く腕をブンブン廻したいです。

寒い・寒い

桜が咲いて、雪が降ってと不順な天候で、我が家の猫さん達も体調がイマイチな感じです。雪か雨と天気予報が語りだした日に、灯油18購入しました。これから日々暖かくなるだろうと判っていながらの灯油なので、ケチケチしない、とバンバン使用したところ、残り9となりました。朝晩、まだ冷えそうだしね。エアコンの暖かさって頼りないのよねって猫さんの声が聞こえそう。だけど、今回の灯油が無くなったら冬まで待とうね。

終わってみれば

いざ、確定申告という時に、インフルエンザに罹患。高熱で一週間休みました。思ったようにタミフルが効かず往生しました。予防接種をしていたのに・・・と長男に泣きをいれたら、そちらも同様にインフルエンザで嫁、孫がダウンしていました。もっと新しい薬処方してもらえばいいのにって、仕方ないじゃない、超具合が悪くて先生の話もうわの空だったんだもの。

出足が悪かった分取り返そうと努力しようにも、体力が低下してしまったのか無理は出来ずでした。でも時が解決するとは言ったもので、申告期限内にすべて電子送信にて提出し、15日には残業もなく帰宅できました。

更なる攻撃は、スギ花粉・ヒノキ花粉なのでした。

遅れ遅れですが、手続き開始

夏の暑い盛りに亡くなった母の遺したものに、最近やっと手を付け始めました。一階と二階とで別れていた電気料金や水道料金、電話の解約や名義の書き換えなど実は何もしていなかったのです。

「遺産分割協議書」が出来あがった事から、寒くなる前に各名義の書き換えを進めていかなくてはなりません。

土曜日、日曜日の休日は、こころも身体もリセットボタンを押して、映画館へ行くようになりました。夫婦割引だとかなりのお得感があります。私の従弟の会社がこの度「日日是好日」という作品の協賛をしています。大ヒットを予感させるものとは、少し違った良い映画であることを期待して鑑賞しようと思っています。

鞍馬寺から貴船神社へ

二十歳過ぎの若いころ、今は山口に住んでいる友人と京都で待ち合わせをして京都のいろいろな所へ行きました。もう一度行ってみたいところが数か所あってその中の一つ、タクシーで鞍馬、貴船を案内してもらうことにしました。あの頃は市バスで移動したのだけれど、ここ2週間程、事務所の夏休みと整形外科の夏休みが全く重ならなかったため、首、肩、腰、足に至るまでギクシャクしていて、まともに歩けません。今回は仕方ないよねと自分には甘く・・・

鞍馬寺の麓からケーブルカーに乗り、そこからは歩きなのですが、私の後ろからタッタッタと軽快な足音で駆け上がって来る人がいました。後ろから追いかけてくるカメラクルー、音声さんやらがヘロヘロで辛そう「まだまだ、これから縦走するよ」と言った御人は、今テレビでよく見かける○○一茂さんでした。私たちも雨が落ちてきたので、貴船に移動・・・って彼らも移動して食事の撮影だったらしくお盆休みでそれでなくても混んでいるのに、有名人現るで車も全く動かずで、仕方なく車内より貴船神社の入り口を拝見して駅へ直行、タクシーさんも観光料金から貸し切り料金に切り替えてくださり、助かりました。雨の止んだ京都駅で新幹線の時間まで、ゆっくり昼食でも楽しんで留守番ネコにご飯のお世話をしてくれている妹に、大好きな和菓子を探すことにしました。

思い立って京都

久しぶりの京都墓参です。ここ数年、私の両親の介護や何やらで、何となく遠ざかっていました。来年1月初旬の義理母の7回忌法要を繰上げでお経をあげて頂き20数年前に亡くなった義理父へのお経も頂きました。先週、思い立っての予約でしたが、新幹線も宿もすんなり予約できました。

墓地から一番近い観光地は清水寺ですが、観光バス、外国からの観光客・・・。何だか人が涌いてくる感じが蒸し暑さを助長するような、私たちが外国に紛れ込んでしまった日本人?と感じるほどの賑わいでした。清水さんの中へは何度も行っているので、参道をちょろちょろとして宿の方へ・・・それにしても汗だくで、首の周りが汗で気持ち悪い。

明日は、帰りの新幹線までの間、外国の方が余り行きそうも無い京都の奥の方へ行ってみようかと相談中です。

書くことで気持ちが落ち着く

家族の誰も母の臨終に間に合いませんでした。施設の看護師さんが看取ってくださいました。

会場の関係や友引などが重なり一週間たってのお葬式になりました。家族と親戚と近しかった人だけで送りました。代が変わっても母のために遠く石巻から母の兄の長男夫婦や母の二番目に年が近い妹の娘、川口からは、母の一番年の近い妹と娘と孫、といった感じで皆、何十年ぶりでの再会になりました。

告別式には、一番下の妹の長男も駆けつけてくれ、またまた久しぶりの再会。

親戚に会える機会を設けてくれた母でした。皆でラインの交換をしたり、携帯番号を交換したりと、お葬式を忘れてしまうほど良い思いでの日でした。

父の妹夫婦が、浅草から来てくれました。叔父はちょうど85歳のお誕生日だったとか、隅田川の花火大会が前日の台風で延期になり、バースディ花火に招待されているとかで、早めに引き上げましたが、来てくれるだけでも嬉しいものです。

母を家に連れ帰り、毎日留守番をさせるのも気が引けて、繰上げの49日法要をしていただきました。父の隣に並べて埋葬しました。父を亡くして2年1ヶ月で母も追いかけるように逝ってしまいました。最期の2週間は別として母は約2年楽しい日々を過ごしたと思っています。施設のスタッフの皆さん、入居者の皆さんがとても良い雰囲気でいつも笑っている母がいました。近々、お礼に伺わなければと思っています。

超高齢者が食事を摂取できなくなった時

記事の見出しのとおり、この間まで食事が美味しくてと話していた母が、食事を食べたくないと言う様になりました。脱水を起さないように施設でも水分を取らせようと努力してくださいます。来年早々、米寿を迎える予定だったのですが、なんだか怪しくなってきました。施設を出れば病院しか無く、しかも受け入れさえも難しそうです。もし入院できたにしても、胃ろう、鼻からの栄養チューブ、中心静脈からの点滴とどれも苦しそう。一度は自然な最期をと願っていましたが現実に迫ってくると本人を差し置いて自分の保身ばかり考えてしまいます。心苦しさから逃れようとしている自分と向き合っています。妹も同じです。連日母の様子を見に行っています。

求人募集・剥がしました

待ち人は、待ちくたびれた頃突然やってくる。来る〜

結局、ハローワークからの応募はあったものの、給料の金額、福利厚生の設備など弱小事務所では、とても、とても。そうじゃなくて・・・と考えた末、「パート募集」に張り替えたところ、このたび、求人広告の張り紙を剥がす事になりました。

明日、明後日は武蔵野神社の夏祭りです。花小金井駅北口は祭り一色になります。

だまされないように

昨日、ご近所の方がハガキを一枚持っていらっしゃいました。

「消費料金に関する訴訟最終告知のお知らせ」 訴訟番号も明記してありました。ご高齢の方でどうしたらよいのだろうか・・・と言う事でした。

早速、ネットで調べたところ、詐欺であることが判明しました。とりあえず、振り込め詐欺であることを説明して理解を得たものか少し不安でしたが、はがきは事務所で処分する約束をしてお帰りいただきました。

はがきに書かれた電話に電話してはいけません。色々な手口の詐欺に引っかかってしまう一歩を自分で踏み出してしまいます。

私たち姉妹の先生

中学1年の冬、小平のチベットと名高い街へ引っ越してきました。妹は天性のおてんばを武器に次々と男子を手下に専ら、学校生活を楽しんでいるように見えましたが、私は、土地の生活に馴染むどころか、元の学校へ戻ることばかり考えていました。転校前に習っていた書道も通いきれずに止めてしまいました。そんな時、近くに書道教室があることを教えてくれた人がいました。一本道路を渡ると、未知の世界の小金井市だったのです。とにかく習わせて頂けることになって、教室での初めての手習いを今でもはっきり覚えています。

「そうね。好きなように一枚書いたんさい。」みたいな、江戸弁のような、悪く言えば、ざーます言葉でまずびっくり。これに書いてと渡された半紙が通常より二周り位大きいのでまたびっくり。お弁当箱にこじんまりと入った文字で情けない、「温故知新」と書きました。先生の前に持っていくと「良くかけてるじゃない。でもね、紙いっぱいに書くともっと勢いが出るし伸びやかになるのよ。と朱色の筆で先生が手直しされた線は本当に伸びやかで堂々としてらっしゃいました。練習したらこんな風に描けるかしら・・・。と年月が流れ・・・

今夜、先生のお通夜に妹と行ってきます。

沢山、お世話になりました。本当にありがとうございました。

辛い五十肩 その4

左肩の痛みがある中、右肩へも痛みが移り、どうしようも無い状態なりました。髪を洗ってもシャンプー糟が残ってしまったり、ドライヤーを頭上まで上げることも難しく、乾かして貰っています。当然、左右の動きに不自由があり、身体を洗うことも拭くこともままならず、苦戦しています。左肩の激痛は、少し治まり痛いところがピンポイントで判るようになってきました。何も手に持たなければ前からなら上へあがります。少しずれるとまだ激痛、肩の痛みより腕の筋肉が固まっている感覚があります。後ろへは殆ど動きません。これは肩甲骨が全く動かないからと自覚があります。両肘を後ろへ引くストレッチや肩を上げて下ろすストレッチをしています。夜間痛は、未だ続いていて万年睡眠不足で、午後かなり眠いです。

それでも、季節が変わるように、痛みに変化を感じられて、少しでも動くようになると嬉しいです。

どちらかが嘘を言い

N大学のアメフト部の問題は、他人事に思えず、二十歳になったばかりの学生を長時間アップで放送している局もあり、これから社会に出て行く青年に酷なことするなあと思いましたし、加害者になってしまった息子を見守る親の心境や記者会見に送り出す気持ちやらが、交錯してしまい思わず涙がでました。それにしても記者会見の選手は、とても立派だったよと褒めてあげたい。

元監督が附属病院に入院した?逃げ込んだ?夜の会見も意とするところが不明で、学生の訴えと平行線のまま・・この大学って大丈夫?大学は学生を守らないでどうするのという疑問符が・・・。何がなくても、事件が起きてしまったら誤りに行くでしょう。学長なり総長なりトップが記者会見するでしょう。

この大学へ進学を決めているアメフト高校生は、どうしたら良いのでしょう。N大学には、トカゲの尻尾切りみたいな大人の汚さではなく、誠心誠意、真摯な言葉を発してほしいと願ってやみません。

ここは、私の家

私、以前に自分を五十代と言ったと思うけれど、と母がいきなり話し出しました。最近、鏡で己が姿をみていたら、白髪で顔はしわしわで、相当な老婆なような気がしてきたの。八十は過ぎているみたいだけど、私は本当はいくつなの?と私に聞いてきました。そういう感覚がわかるってというか、気がつくようになったことに驚きました。昭和6年早生まれなので、今87歳であることを教えると、やっぱりね。そのくらいだと思ったけど・・・と少し間があり、もう少し若くても良かったわね。と笑いました。男の子が二人いるのよ。と真剣に話していましたが、じゃあ私は誰?と聞くと、ああ娘だった、私の記憶は全部逆に覚えているみたいと嘆きながらも、何だか楽しそうです。

酸素吸入を始めてから、ベッドに横になっている時間が増えました。テレビがお友達です。食事も「キザミ」から常食の変更はありません。朝食にパンが食べたい希望も「パンがゆ」というスタイルだとわかると、おかゆの方がすきだから・・というようになりました。食事が逆流して肺炎を起さないように、量が調整されていますし、食後は身体を起している時間をつくらないくてはなりません。介抱してくれる人が沢山いて幸せねっというと「ここは、私の家だからね。何でもしてもらえて幸せよ」と満足気に語る母です。

訪問診療は難しい?

施設から手紙が届きました。訪問診療機関の変更はないものの、院長先生=主治医が三度目の交代です。もう辞職されるなりが決まっていたのだろうに私たち家族には、普通に治療方針を語り、任せてくださいって感じだったので複雑な気分です。母は大丈夫なのです。誰に会ってもはじめまして状態なので。もう少し時が上手いこと流れたら、確実に家族の顔も忘れてしまうでしょう。

訪問診療機関のホームページには、365日24時間体制であることが書かれているところが殆どです。介護職の方も大変だなと感じていましたが、訪問診療も、終末期を支えるのだから、忙しく、辛い仕事なのですね。

なんだかな

酸素吸入を常時している母の様子を見に行くと、彼女は、車椅子を巧に操り自室へ移動、車椅子の携帯酸素ボンベの線を止め自分の鼻からノズルを外しベッドにある固定式酸素ボンベのスイッチをオンにし、鼻にノズルを繋ぎます。一連の行動があまりにも自然体で驚いてしまいました。

施設でも介助ではなく、見守りに変わりましたとのこと。食事は「まだ、おかゆなのよ。パンが食べたいわ」が口癖ですが、アルプスの少女ハイジに出てくるペーターのおばあさんが「白パンが食べたいね」に何となく似ています。

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