最終章 そしてお引越し

義母の49日を終えて、まだまだ続くお話は、新しく作った「ひとりごと」へお引越しします。

ひとりごとの方では、義母の法事や親戚との話。私を取り巻く人間模様など、あたりさわりのない程度でお知らせしようと考えています。

認知症義母日記に長い間お付き合いくださり、ありがとうございました。

 

お友達へのハガキ

認知症発覚の時、大変お世話になった義母の同級生の人たちへはがきを書きました。本当なら封書が良かったのでしょうが、あまり大げさにしたくなく、同級生ですから寂しい思い出にしたくなかったのです。つい最近まで見舞ってくれていた方もいます。何故葬儀の連絡をしなかったかは、やせ細って元気な時の顔とは全く別人のようになってしまった母を親戚以外の方に見せたくなかったのが本音です。

数名の方にはがきを出しました。

最近まで見舞ってくださっていた同級生の方から電話がきました。たとえ一人でも連絡をもらえるとうれしいものです。何にもしゃべれなかったけど、ニコニコとしているだけで、私のことわかっているのだと思っていたと、語ってくださいました。本当に感謝しています。

49日の法要は東京で

宗教によって、しきたりがあるようですが、私は毎週七日当りの曜日の前日に花を替え、その日に線香を立てることを繰り返しました。49日は、築地まで行く予定をしていましたが、長男夫婦が子連れで来るというので何とか近くでと思いホームページを見た所、近くに別院があり電話をすると法要が可能とのこと。

法要の日、長男夫婦と孫、次男、私たちで手を合わせお参りできました。

成年後見人としての最後の仕事

家庭裁判所に母が亡くなった旨の報告をすると、書類が送られてきます。いつもの報告と同じように書類を作成し、期日までに提出します。

母が亡くなった時点で、成年後見人としての仕事は終了します。〔実際には書類提出で終了ですが〕成年後見人は、相続人ではないので、〔主人は相続人です〕書類関係を相続人代表の方に渡して終了します。

5年と数ヶ月の仕事でした。実際に認知症と診断されてからは、7年と数ヶ月、本当は診断前が数年あったと思いますが、今となっては語りようがありません。

ただ今は仕事をするだけです。

広島で過ごす最後の日

本当なら東京の仏壇に祭壇を造り49日の法要までお骨を安置するのが常識なのでしょう。京都のお寺に電話をして聞いてみると、「一度戻って、また京都まででは大変でしょう。お骨は京都へ安置して東京でお参りすれば良いでしょう」ということで、僧侶のご意見に従うことにしました。

今夜は、広島でも思い出深いグランヴィア広島に宿泊することにしました。おじいちゃんが存命の頃、毎年息子たちを連れてきて泊まった思い出のホテルです。ここでよくご飯を一緒に食べました。その当時はステーションホテルだったのですが、今回ここがおばあちゃんの終着駅になってしまいました。

ホテルはリニューアルされたようで、リッチな気分にさせてくれる最上階の部屋です。広島の街の灯りが一望でき、灯りが精霊流しのように映ります。

おじいちゃんが亡くなってからは、ずっと京都の旅館に宿泊してお墓参りがてら観光をしたりしていました。おばあちゃんが認知症で倒れるまで毎年、たとえ忙しくて日帰りになっても息子たちは、文句も言わず毎年つきあってくれました。いろいろな事を思い出します。明日、京都は混んでいるかしら・・・。

息子たちの想い

気の利いた長男のお嫁さんから、告別式当日の朝、電話がきました。生花が間に合うのならすぐに手配してくれるとの事です。確かに祭壇は花でいっぱい、綺麗ですが、グループホームから生花が届いただけでしたので、親族一同だけではちょっと寂しいなと感じていたところでした。

生花は対で、即飾られ、「孫一同」と、会場に来れなかったことを詫びるように思えました。生後2ヶ月の赤ちゃんを抱え、頑張ってくれました。

お花畑にいるように、明るい花に包まれ最期のお別れをしました。

親戚に見送られ

その土地の風習や葬儀の仕切りなど、何もわからない私たちです。こんなことも知らないのと言うほど宗教についても知らないことだらけで、母を目にしてもどのように進行するかに追われてしまいました。

広島では、亡くなった日に通夜、翌日告別式が一般的だそうで、東京では火葬場から逆算で葬儀が決まるのとはちょっと違います。母は夜中に亡くなったので翌日昼過ぎ私たちが到着した日が通夜になります。早速葬儀屋さんの出番です。予約していたとはいえ駆け込み葬儀のようなものです。しかし、商売うまいことできていて、一番ランク下からプランを見せられる。たとえ家族葬でもこのくらいはしてあげたいと故人を目の前に思うのです。というわけで、お花でいっぱいプランを御願いしました。会場に宿泊もできるのですが〔線香の火を絶やさない〕今は消防法で禁じられているようで、例えるなら傘のようなクルクル細く長く巻いた小さい線香をつけるので、他に宿泊される方も多いですよ。と近くにホテルを取ってくれました。

荷物をかかえ、ホテルへ移動して着替え休む間もなく会場へ戻ると、祭壇が本当に綺麗にできていました。さすがプロの技。

本来なら仏教婦人会で活躍していたお寺から、御住職にきていただくのが常識なのでしょうが、会場が遠方になってしまったため、葬儀社に相談したところ、同じ宗派ならこの近くのお寺の御住職で大丈夫とのこと。昔から親しんでいた御住職でなくてごめんね。でもおかげさまで親戚が集まってくれましたよ。

いつ逝っても・・連絡待ちのつらさ

母がいたグループホームは、看取りまで行っています。認知症は進行性の病気ですから悪くなることはあっても良くなることはありません。身寄りの無い人、生活保護の人の場合、ホームでお別れ会を行っているということです。ホーム長に相談すると、やはりセレモニーホールを利用するのが一般的になっているとのことでした。「家族葬」ができる会社を知っているとのことで、紹介してもらいました。その時になってどうしようとなる前に事前に仮予約をしました。もしもの時、何時であろうと、母をホームから会場へ運んでもらえるようお願いしました。

たった今、亡くなりました。と東京で電話を受け、私は葬儀社に連絡をし、親戚に連絡しました。あんなに大丈夫さようならを言ってきたから覚悟はできていると言っていた主人なのに、目が真っ赤か、連絡は頼むと言ったきり黙りこんでしまいました。とにかく連絡事項だけは全部して、翌朝でかける支度をして、明日から数日事務所の留守番を妹に託しました。本当なら私の両親、息子たちも参列するべきところ、高齢の両親の足取りを考えると無理させられず、息子たちもそれぞれの仕事、学校とを考えると参列は無理と判断しました。

こちらから、冥福を祈ってくれたらそれで十分だから・・・。両親も息子たちも了解してくれました。

ホームで綺麗にお化粧をしてもらい、深夜にもかかわらずホームから見送られ母は、セレモニーホールへ移動しました。

最期の九日間を懸命に生きました

元日の昼、何とか母の元に着き主治医から経過報告を受けました。先生も、正月だというのに、いつもと同じように患者を訪問診療してくださっています。訪問看護師の方も同じです。

血管が薄く平らになってしまい、もう点滴の針が入る隙間がない、これ以上の延命はほぼ無理であるとの事でした。普通、認知症の患者さんは、他の合併症もしくは既往症で亡くなる方が殆どですが、食べる事を忘れ、飲み込むことを忘れ、息をすることを忘れ・・・というように、認知症本来の姿で亡くなっていく人は少ないのですよ。と先生がおっしゃいます。

主人が先生に、もしこの状態に自分の母親がなっていたら、先生はどのような処置を施しますか?と訊ねました。先生は少し考えられてから、もう充分に手当てしたと思う。治療してまた笑ってくれるなら、話してくれるのなら何か方法を模索すると思うが、もし治療できたとしても、もうこの状態より回復の余地がないのであれば、静かにその時を迎えさせたいと思う。と話されました。

何度も覚悟してくださいと言われてきましたが、本当の覚悟の時を過ごさなければなりません。母には「自然死」の選択しかなかったのです。せめて、私たちがここにこられる6日までに看取れればと願いましたが、無情にも、母は生き、9日夜ホームの方々に看取られて静かに逝きました。母の兄弟も前日までにお別れのお見舞いに来てくれて母も幸せだったに違いありません。

覚悟を決めた正月の間に葬儀の相談をホーム長としていました。

年末ぎりぎりに年賀状作成

義母の状態が不安定でいつ逝ってもおかしくない状況の中、「年賀状」をどうするか迷っていました。クリスマスが過ぎ、元旦に届かないにしても、やはり出そうと決めいざレイアウト・・・。プリンターが動きません。事務所の用紙はA4、B5、B4が主流でコピー用紙も薄いので大丈夫なのですが、ハガキは紙が厚く小さいので送り部分が難しいようです。

自分で印刷するのを諦めました。先月生まれた初孫のお宮参りの写真を業者に依頼、とりあえず宛名だけ書き込んで大急ぎでポストへ。家族写真の年賀状なんて初めてで何だかドキドキものです。

どたばたしながら、年末を向かえ大晦日の午後、グループホームから電話来ました。

血液検査は正常値

前回の血液検査から一ヶ月。その日は土曜日だったのですが、採血をしたそうで翌日曜日の午前中、電話で検査結果を家族に知らせたい、と主治医から伝えるようにとグループホームから連絡がありました。

日曜日の午前中も診療をしているので、診察前が良いとのことで朝8時に主人が電話しました。結果は「良好」

信じられないと主治医も言ったそうです。検査項目すべて正常値のラインに・・・。でも食べられない・・・・・・・・・・。治療の方向性は同じで、毎日300〜500tの点滴のみです。

今年1月に亡くなった伯父の一周忌のために調度帰広していました。ここまで持たないと言われていただけに義母の生命力の強さを感じます。

家庭裁判所から審判の書類が届きました

時間のかかった審判だと思います。

主人は、母の確定申告の請求だけでも仕方ないと思っていたようです。

内容は、詳しく書きませんが、成年後見人になってから5年間分、それぞれそれなりの報酬を受けられました。仕事的には私のほうが多いのですが、何故か主人の方が多かったのが、ちょっと・・・。

 

 

また高熱を出し呼び出し

前回、もう駄目かも、、、という悲痛な電話の意味は、急激に酸素濃度が下がり、チアノーゼが出てしまい電話をくださったものだと判明。酸素吸入をさせてくれません。手で剥がしてしまいます。鼻に直接あてるのも嫌がります。

その週は様子を見に私一人で帰広する予定でした。でもホーム長からの電話では、予断を許さない状況になってきた、、、とのことで、二人で行くことにしました。

「誤嚥性肺炎」でした。少し食すようになったのは良いことなのですが、食すと「痰」が溜まるのです。のどのところでゴロゴロ音を立てているのがわかります。これが「誤嚥性肺炎」の素のようです。抗生剤が効いたのか高熱からまる四日目に私たちが到着。熱も安定し絶食から開放されました。大好きなアイスキャンディを食べさせてもらい、のど越しが良いのかごっくんと飲み込みます。エンシュアなどの高カロリーゼリーは、大嫌いの様子で食しません。

翌日、訪問看護師の点滴中にお邪魔しました。腕からの点滴は血管が細すぎて難しいらしく、足からの点滴で、針を刺した部分が動かないように、看護師の方はベッドに上がり、労わるように本人が騒がぬように足をそっと抑えていました。眠っている時の点滴は楽なのですが、とにかく手足をぐいぐい動かすことは本能なのでしょうか、とにかく身体、特に手足をよく動かします。心臓から遠い足からだからなのか、500ミリ一本を一時間少々で入れ終わりました。前回にはなかった「エアマット」が敷かれていました。床ずれの予防になるそうで、本人も楽そうに見えました。

体重は確かに減っていると思われるのに、血液検査で異常値がありません。慢性C型肝炎を持っているのに黄疸がでないのが不思議とお医者様もビックリ。正常値の一番下のラインばかりですが、正常値に違いありません。私たちより健康じゃんなんて軽口が飛び出すほどです。

のどがゴロゴロするときは、点滴後に痰の吸引、苦しそうですが自力で出せないために肺炎を起こすのですから仕方ありません。吸引すると、ゴロゴロ音はなくなり楽そうです。

誤嚥性肺炎、熱、抗生剤、少しの食欲、点滴、痰の吸引の繰り返しがこの先、あるのでしょう。

とにかく静かな人ではありません。このまま静かに最期なんてあり得ません。この先振り回されるのを覚悟した私たちでした。

完全な拒食ではないのです

ホームでは、義母のために特別食を用意してくださいます。食べるか食べないかは、義母次第なのですが、その日の献立の中から工夫していると連絡がありました。

そして、義母も好きな食べ物なのか、口当たりが良いものなのか、食すことがあるのです。

口を開く、口に入れてもらう、噛む、飲み込むの動作の内、義母は飲み込みが出来ないのです。

ホーム長は、お医者さんは絶食でよいと言ったけれど、家族だったら何か食べさせたいと思うのが心情。私たちもこのまま、看ているだけなんて出来ないので、起き上がりが出来る間は食事の用意をさせてください。とうれしい言葉をいただきました。

おばあちゃん、この家にして良かったね。

介護をしてくださるスタッフが、みなさんとても優しくて温かいです。

とても忙しく働いていらっしゃるのに、更に気を使ってくださり感謝、感謝です。

医療保険からはみ出した医療費

義母は、毎日点滴を受けることになりました。

300tは、人の身体にとって微々たるもの、足りるはずもありません。しかし点滴をしている1時間半を義母は動いてしまいじっと出来ません。訪問看護師がずっと付き添っていなければならないのです。

グループホームは介護保険扱いで、医療については高齢者医療保険が利用できるのですが、限度額があるようです。詳しくわからないのですが訪問看護の限度が2週間分までで、そこからは自費になるようです。

義母の場合、点滴と訪問看護のセットなので、月額にすると20〜30万円位はかかるらしいです。

主治医の先生がおっしゃっていました。食べなくなったら何もしないホームもありますが、ここのホームで世話をしてくれる方、遠方の家族の方が、点滴をすることで緩やかな自然死をと望むのは、お互いのために慰めになる。何であの時・・・という後悔の念はさほど強くないであろうと・・・。

義母は何を想っているのでしょう。本当にもう何もかもわからないのでしょうか。つい十日前の誕生日の写真は、笑顔だったのに・・・。今はその面影さえ嘘のように痩せてしまいました。

こんな時に裁判所から

2年に一度の定期提出の封筒が届きました。

もう少し遅らせてもらえないかな。という私のつぶやきを聞いていた主人が、裁判所は絶対だから、いつまでと言われたら厳守しなくてはいけない。またすぐに書類提出になるだろう、でもこの期間の仕事は提出しなくてはいけない。

了解。早速通帳記帳、コピーをして、書類を整えて期日よりもずっと早く提出できます。

今回の提出で、後見人報酬を請求することにしました。

これは以前から決めていた事で、義母の自宅を売却した際に税理士として譲渡所得の確定申告書を作成していたり、これまでの5年間の成年後見人としての仕事に対する評価を裁判所がどのように審判するのか知りたかったからです。たとえ肉親であっても、報酬があってこそ仕事であり、また継続していこうという意欲がわいてくると思うのです。

申立をすると言ったのは主人です。正当な理由がありますから・・・。

毎月の仕事をしている私には、どんな審判が下るのでしょう。

主治医との話で決断

その日は、土曜日。診療は午後1時までということで、何とか時間内に行こうと必至で早起きしてグループホームへ向かいました。

ホーム長の出迎えで、義母の元へ・・・・・。またまた小さく細くなった義母です。

主治医に連絡してくださり、午後診察終了後に往診があり、行く途中なのでホームへ寄ってくださるとのこと。

先生が見えるまでの間に、私たちは東京駅で買ったお弁当を義母の部屋で食べさせてもらいました。

先生が到着され、ホームの診療室へ呼ばれました。

義母は認知症の末期であること。

1.胃ろうを病院に入院して造る。

2.中心静脈を固定し一定の栄養を流す。

3.腕、足などの血管より点滴剤に少量のビタミン類を混ぜ点滴する。

胃ろうをしても今以上の回復は見込めない、とにかく手が活発に動くので中心静脈を抜いてしまう恐れが高く危険が伴うため出来ない、と言われ残る3番を選択する以外なくなりました。

1日300ccの点滴をすることになりました。

義母の生命力が1ヶ月もつか2ヶ月もつか、カウントダウンが始まりました。

これが最良であると先生、ホーム長、私たちで話し合った結果です。

 

少し回復したかな?そしてまた拒食

点滴のおかげか少し食欲が戻った義母です。食す量は、そのたびにむらがあり、朝食べ、昼食べず、夜少しだったりと、一日分には足りない状態です。

そんな生活が三週間位続いたある日、一本の電話が・・・・。

また拒食が始まりました。たぶん今度は乗り切れないと思うというグループホームからの電話でした。

一度電話を置き、主人と相談し明日一番でそちらへ向かう旨を伝えました。

ああ、今度は拒食

このごろ、グループホームからの電話が多くなり、今度は何だろうと、ちょっとビクビクしていました。

ってところへ電話が入りました。

数日前に38度台の熱を出し、翌日まだ微熱が残っていたことから、主治医に往診してもらいました。このごろ食事でむせてしまうことが多いので、「誤嚥性肺炎」を心配していましたが、肺炎ではないということでした。熱のせいで食欲がないのだと思っていたのですが、熱が下がっても口を開いてくれなくなりました。脱水が心配なので静脈点滴をしていますが、何とも嫌がりまして自力で抜かれてしまいます。

義母はそれでなくても血管が細く、週2回のミノファーゲン静脈注射で血管が硬くなっています。やっとの思いで、訪問看護師さんがセットしても、腕に力を入れて筋肉の力で針を押し出してしまうのだそうです。

というような内容の連絡でした。

私たちは、拒食になった時を一番危惧していたのです。

今は、点滴をしながら様子をみる以外方法がないという主治医に従い、次の連絡を待つことになりました。

今私たちに出来ることは、仕事を前倒しして2日くらい事務所を空けられるようにすることです。

 

固形物にむせてしまう

飲み物が上手に飲み込めない義母ですが、この間まで固形物はモグモグ食べていました。

ところがです。固形物を口に入れるとむせてしまい、食べられないというのです。現在半ミキサー食にしてもらい、食べさせてもらっています。半ミキサーで完食している状態ですが、ほとんど噛まないで食事するためでしょうか、頬の筋肉が落ちてプリっとした感じがなくなってしまいました。

以前、何かの雑誌で、北欧の国では「寝たきり老人」はいない。経口より食事を摂れなくなった人には食事を与えない、胃ろうや点滴など医療行為はしないで最期を迎えるのだと書いてありました。国民性や宗教など考え方がいろいろありますが、何とも複雑な気持ちでした。

今、しばらくは半ミキサー食で暮らせるかもしれない。でも確実に完全ミキサー食になるでしょう。その後は食べる行為を止めてしまう・・・。言葉を発することが困難な義母にどんな答えを出してあげたら、お互い辛くないのでしょう。

義母の笑顔が少なくなってきているのも気がかりです。

右手親指人差し指の間、4針縫うケガ

洗面台の底を塞ぐ蓋には、抜きやすいように、普通鎖がついています。

何を思ったのかは、全く知る由もありません。本人さえもしかしたら無意識の行動だったのかも知れません。

母は、その鎖部分をギュウっと握り引っ張ったのです。誰が制止させようとしても駄目で、どうにもできなかったそうです。壊すまで引っ張り続け本人が納得して手を離した時、パックリと傷口が開いていたそうです。本人に痛みがなく、出血も少なかったことから、救急車は呼ばず翌日近所の整形外科へ行き、念のため4針ほど縫いつけたのです。

今回、訪問前に報告を受けていました。主人が申すに母の性格は勝気で負けず嫌い、今までホームで穏やかに暮らしてこられたのが不思議なくらいと申します。

認知症は、痛いという感覚を奪ってしまうのでしょうか。物を握る力は凄いです。私たちが握手しても老人とは思えないほどの力で握ってきます。

今度は何をしてしまうのだろうかと、包帯でぐるぐる巻き、弄らないようにテープで固定されている母の手をみながら心配する私たちです。

整形外科の夏休みが終われば、抜糸する予定です。

お盆に「ぼんぼり」が派手に彩られる光景

いつもの年は、お盆の込み合う時期をはずして、義母を見舞うのですが、今夏は伯父の新盆ということもあり、安芸地方の白い「ぼんぼり」を墓地に飾らなくてはならず、義母に変わり私たちが行ってきました。

駅からレンタカーに乗り、義母の実家へ向かうのですが、コンビニにも「ぼんぼり」が売られているのには、ちょっとビックリしました。新盆は白地に銀、白、少々の金色の紙で装飾されていて、おとなしい感じ。他の「ぼんぼり」は、赤、黄、紫、金、銀紙で飾られていて私から見たらど派手です。この地方独特なものだと聞きました。重要なのは、ぼんぼりの部分に自分の名前を書き入れることだそうで、誰が来てくれたかが、一目でわかるようにだというのです。

朝、家を7時に出て、夕方3時半、「ぼんぼり」に名前を書き入れて、所定の場所に飾り義母の実家へ行きました。お仏壇にお参りさせていただいて、ほっと一息。出迎えてくれたのは、亡くなった伯父さんの長男、次男さんでした。他の叔母や叔父とは行き違いになってしまったようで、残念ながら会えませんでした。

東京のビル街から、半日で山々に囲まれ、日本海へ注ぐ川が流れ、広大な田んぼと畑、家は集落ごとに点在する。何とも不思議な光景です。

ここらには、子どもがいないんだと主人の従兄弟が嘆いていました。自分も週末に田畑の世話をしに、ここへ来ているのだと言っていました。そう言われて見れば、草でぼうぼうになっている元田畑も、誰も住んでいなさそうな家もあったような・・・。

昔、盆踊りとかお祭りとかあったんだよって・・・寂しそうに語っていました。

ぼんぼりは風にゆられて、どの家のお墓の周りも綺麗です。私は初めての経験でした。また来年、今度はカラフルなぼんぼりを持って行こうと思っています。

おむつを食べてしまう

高分子吸収ポリマーの質が日々改善され、成人用おむつも吸収部分が薄く、ウエスト部分もゴワゴワしないよう改良されています。日中は人手もありますから、尿パットをあてておき交換可能ですが夜間は大パットをあてて朝までが普通です。グループホームでは夜間一人で9人のヘルプをするので仕方のないことだと思っています。

夕食後、服薬、歯磨きと続き、ひとときのくつろぎの後、就寝の準備をそれぞれが行っていきます。義母も皆と同様にしていきます。就寝中何度かトイレへ行くことのできる人は良いのですが、義母の場合は全おむつ生活ですから、ここで夜用大パットに交換します。いつものように大パットに交換し、他の方のお世話をしてから義母の部屋をふと見たヘルパーさんが、あることに気がつきました。

義母の口がもぐもぐと動いていることに・・・・・・・。

えー何???

義母がいやがるのを必死に宥めながら口を開けさせ、出てきたものは、「オムツ」のパット部分でした。飲み込むまでに至っていなかったのは、本当に幸いでした。飲み込んでお腹の中でポリマーが威力を発揮したら、と思うと本当に恐怖です。本人に食べてはいけないと言ったところで理解できませんし、何とかオムツに手が届かないような工夫をする以外にありません。

現在の対策:::

大パットをあてた後、薄手で二重になっている腹巻をリハパンの上から胸下まであてる。

義母は身体が小さいので、しばらくこれで様子見になるとのことでした。

そして今年も、脱水に要注意の夏がやってきます。年を重ねるたびに水分補給が難しくなっている義母です。今年は電力事情もあり高齢者施設でも節電しなくてはならないのでしょうか。

今夏は義母の兄の新盆です。安芸地方だけなのだそうですが、「ぼんぼり」と呼ばれる物を墓前に供えるのだそうです。新盆は白、他はカラフルな色で、墓地が華やかになり不思議な風景です。

 

16年ぶりに従兄弟と再会

今年に入った早々、義母の兄が急逝しました。留守番電話で知ったのです。

今すぐに、家を出れば明日の告別式に間に合ったのですが、無理しなくていいよ。という親戚の方々に甘え3月の末、義母の実家へ行ってきました。

今回は、義父の17回忌にあたり、京都で途中下車、お墓参りをしてから広島へ向かいました。年度替りなのか春休みだからか、京都市内の混みようは半端ではなく、約2時間あれば余裕でお土産も購入できるはずだったのに、のぞみ発車まで15分しかないよと、タクシーの運転手さんに言われ、お弁当だけ買ってのぞみに飛び乗りました。広島駅からは、レンタカーを手配していました。川の流れが途中から日本海側へ変わってしまうような山間へは、バスもありますが1時間に1台くるかこないかの所ですので、小さい車を借りて途中で花と線香を購入しました。親戚誰にも行くとは言っていなかったので、とりあえずお墓参りだけでもしてこようと思っていました。が墓石に名前が刻まれていない・・・。49日は過ぎたけれどまだお墓へ納骨していなかったのです。ご先祖様に花と線香を供え拝んできました。

このまま帰ろうか、でも近くに従兄弟の家があるはずだと、車から降りてとっとこ走ること数分、「あったよ」と夕方5時過ぎのこと、土曜日の夕方、夫婦で早めの晩酌をしているところお邪魔してしまいました。義父の葬儀からですから、16年ぶりの再会です。亡くなった伯父の次男さんです。お互い懐かしかったのでしょうね。急な訪問で本当にご迷惑おかけしました。

伯父さんは、前日までバイクに乗り、元気にしていたそうです。その日の夕方、姿が見えないね。と近所の人や家族が近辺を探したけれど見つからず、従兄弟が実家の塀周りを一回りしたところ家から影になって見えないところに倒れていたそうです。伯父の家は市内ではないのですが、市内から50人くらいの警察関係者が来てもちろん実家はキープアウトの黄色テープが張られてしまい、亡くなった伯父は解剖のため広大病院へ搬送、遺影の写真を探そうにも家に入れず、通夜の席に広大から戻れず仕舞いだったのだそうです。死因も特定不明の「急性心不全」。

バイクに野菜を積んで、義母のところへ何度も見舞いに来てくれるやさしい伯父でした。93歳年齢には不足はないかも知れないけれど、やっぱり寂しいなと思います。伯父さんの奥さんはご健在なのですが、年相応もしくは認知症で老人施設にいます。伯父のことは知らされていないそうです。

義母に事情を話しましたが、無反応でした。認知症は聞こえている、理解していると言いますが、今の義母は、そういう段階は過ぎてしまったように思います。そしてまた一つ問題を起こしていました。

 

 

ターミナルケアは家族が決める

認知症の義母が自身をどこまで理解しているのか知る由はありません。義母は要介護5で全介助、言葉も殆ど口にできません。グループホームではターミナルケアの方向性をそろそろ考えてくださいとそれとなく伝えてきました。

義母のいるグループホームでは、希望すれば看取りまで行っています。

体調が悪くなり経口で食事が出来なくなった時、医師が今後どのように対処されますか?と問います。

・病院へ入院させる。〔グループホームを退所する〕入院させてくれる病院があればの事。

・胃ろうを造設し、一時入院するが、グループホームへ戻り、胃ろうから食事を摂取する。

・中心静脈を維持し、一定量の栄養点滴を補給する。

・腕などの抹消血管よりの静脈点滴で主に水分と少量栄養を補給する。

選ぶのは、家族に委ねられます。本当に難しく悩ましい選択です。

今現在、介助で食事ができる義母ですが、いつ変化するかわかりません。その時のために今から考えておかなければなりません。

 

 

東北大震災 実母の実家

不動産のことで、ごたごたしていた3月11日、東京でも激しい地震がありました。家族の所在を確かめようにも携帯が使えず、都心にいたら帰れるだろうかと心配でなりませんでした。

私の母の実家は、宮城県石巻市です。

旧北上川の河口近く、私が小さい頃、住吉公園の小さな太鼓橋を渡ったり、石巻の名前の由来である石に渦のような巻きの模様が入った石を見たり、はぜ釣り、カニ釣り、川開きの花火と夏休みに石巻へ行くのが楽しみでした。長浜、渡波は当時は海水浴場で日和山からの景色は北上川の河口から左も右も海でした。ただ凄かったのは、南風の日は、かつおの工場?からくる猛烈な臭い・・石巻の臭いなのだと我慢していた記憶があります。お菓子やさんや八百屋さんの店先でとうもろこしや枝豆をふかして売っていました。遊びにきたのか・・ちょっとこさいって両手いっぱいに枝豆をもらったり、東京ではありえないことがこの街にはたくさんありました。私が中学生になるころから夏休みに石巻へ行くことは激減し、行っても一日、立ち寄る程度になっていました。

長浜が大きな漁港になったと聞いていました。大きな船がついて冷凍の箱詰めになった魚を倉庫へコンベアーで納めているのだと聞きました。

私が知っている石巻とテレビに映し出される石巻はずいぶん違っていました。

母の実家は津波にあい、住めなくなりました。

昔、亡くなった祖父が「地震がきたら、てんでんこだよ。」といつも私たち姉妹に聞かせていた言葉を思い出しました。昔チリ地震で川の水が異様に引いていく様子やそのあと大津波が来てたくさんの人が犠牲になった怖さを何度も話してくれました。きっと私だけでなく、石巻に住んでいる伯父伯母、従兄弟も皆同じ話を何度も聞いていたのだと思います。連絡が取れなくなって数日後、インターネットの掲示板の避難者リストに全員の名前を見つけることができました。教室は皆ばらばらでしたが偶然なのか皆同じ中学校に避難していました。

今は、それぞれ掃除をして何とか住めるようになった家族あり、仮設住宅に住む家族ありと今後を考えると大変ですが、日々何とか暮しているようです。

母が電話をすると「こっちは大丈夫だ。」としか返事がないようで、返って心配しているのですが・・・。

 

てんでんこ・・・家族がばらばらになってもとにかく1人でも逃げる。そんな意味だったように思います。本当の意味は違うのかも知れません。遠い記憶なのでお許しください。

 

成年後見制度を考える その7

実家近くの不動産屋さんの話では、そんなに長く待たなくても売れますよ。なんて軽い感じ・・・。

でも近所は駐車場だらけなんだけど、本当に大丈夫かしら・・・。それにしても適正価格が低いのには驚きでした。地価が高いのは地方都市でも極一部のことで、市内でもちょっと奥に入ると、へーって感じです。

待つこと数ヶ月・・・買手が付きましたよとの電話。

業者への売買でした。即決で仮売買契約書の作成をお願いして、家庭裁判所へ連絡、書類を整えて提出しました。

一部不足書類があったため審判が下りたのは2週間後くらいでした。

そこからは、司法書士さんにお願いして登記の変更が行われ、売買が終了しました。

更地になった実家跡地を見ると寂しい感じですが、しばらくすると新しい家が建つのでしょう。

新築のグループホームへ訪問

新築のグループホームへの訪問です。

昨年くらい前から、夏場の水分補給が難しく、お茶を口に含んだままゴックンができず洗面所で吐き出すようになっていました。半年前までは、ゆっくりですが食事を1人でしていましたが、この頃はままならず全介助で食べさせてもらっているとのこと。

水分は、すいか、みかん缶、紅茶ゼリー、などで補っていました。

食事は食べ物で遊びだしてしまうので、遊びの合間に介護者がスプーンでお口へポン。口の中へ入ればもぐもぐと食べます。

言葉を発する事が難しく、ニコニコとしているのですが、何も話しません。

たしか訪問した日の昼食は、刻んだ野菜と細かいひき肉の入ったふんわりオムレツ、ジャガイモと人参のやわらかソテー、キャベツ他野菜のスープ、デザートにぶどう、やわらかいご飯だったと思います。職員の方々も同時に同じものを食べます。自分も食べながら、食べさせる。赤ちゃんに離乳食を食べさせるママそのものです。

義母は真剣に食べ物で遊び、しっかりと食事をしていました。

主人や私のこと理解しているのかは不明です。

 

グループホームの引越し

今年の冬だったか、グループホームで火災があり多数の死傷者がでました。その事がきっかけになり、全国のグループホームに対し防火対策調査がありました。義母の住むグループホームは、普通の民家をリフォームしたものですし、立地も急斜面で消防車が入れるの?という心配だらけでした。

調査の結果は、防火壁の設置、スプリンクラーの設置・・・。入居者がいるなかでは、工事出来ないため、所長は新築移転を決意されました。現グループホームは通所ディサービスに利用し、新築移転の方は1ユニットから2ユニットへ〔9名から18名〕なりました。大胆な行動に本当に驚きましたが、平地になれば利用者家族にとって通うのにとても楽になります。

そして、数ヶ月で引越しとなりました。家具や調度品はそのまま、なるべく変化が感じられないように配慮したそうです。今までの入居者は1階へスルー、新しい入居者さんは2階へとなりました。

義母の引越し通知を義母の兄弟、友人方に出したところ、早速友人が見舞ってくださったとホームから連絡が入りました。本当にありがたいことです。兄弟からもハガキが届きお盆前には必ず顔見せに行くと書かれていました。結局私たちが一番最後になってしまいますが来週行きます。

ちょっと心配なことも出てきたと所長さんから言われています。

 

成年後見制度を考える その6

義母がグループホームへ入所した後、残ったのは誰も住まない家でした。将来、この家に帰れる見込みのない義母にこの家は必要なくなってしまったのです。主人にすれば生まれ育った生家であり、懐かしい思い出がいっぱい詰まった場所です。このまま庭の手入れなど手を掛けていれば保存できないこともありません。しかし、近隣住民から見たらどうでしょう。空き家に侵入者がこないか、不審火はないかなど不安材料ばかりなのです。

とりあえず業者に入ってもらい家財の処分をすることにしました。リサイクルできそうな着物や家具は別業者に引き取ってもらいました。大切にしまってあった兄弟で撮った写真などは持ち帰ることにしました。仏壇は我が家に大きすぎて納まるサイズではなく、お寺さんに供養していただいた後仏具店に引き取っていただきました。その後、我が家は、部屋の一部をリフォームして仏壇を購入しました。仏壇とお寺にかかった費用は義母、リフォーム代は我が家持ちです。(裁判所に相談しました)

主人が「ここは、他の人に住んでもらおう」と決めました。居住用資産売却の特別控除は居住しなくなって3年以内で過ぎれば税金が発生するというのも絡んでいました。

早速、家庭裁判所に電話をし、居住用資産の売却方法を聞きました。

裁判所の許可がなければ、土地建物の売却はできません。